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新札発行されるということで、新札に採用された人物はどんな人だったのか気になりますよね。
今回の新札は、
- 新1万円札:渋沢栄一
- 新5千円札:津田梅子
- 新千円札:北里柴三郎
です。
何故この方たちが選ばれたのか、どんな方だったのかをご紹介していきます。
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目次
新1万円札:渋沢栄一(しぶさわえいいち)日本資本主義の父
渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、1840年生まれ。(没年1931年。91歳で永眠)
栄一は、日本の経済を支える企業の設立に尽力した人です。
第一国立銀行(現:みずほ銀行)や、地方銀行、そのほか日本を代表する企業の設立を指導しています。
その数は500社以上と言われるほど。
主な所だけでも、以下の会社があります。
- 東京瓦斯
- 東京海上火災保険
- 王子製紙(現王子製紙・日本製紙)
- 田園都市(現東京急行電鉄)
- 秩父セメント(現太平洋セメント)
- 帝国ホテル
- 秩父鉄道
- 京阪電気鉄道
- 東京証券取引所
- キリンビール
- サッポロビール
- 東洋紡績
- 大日本製糖
- 明治製糖
- 澁澤倉庫
しかし、渋沢栄一は「私利を追わず公益を図る」という考えを持っていて、自分だけ豊かになろうはしませんでした。
当時の実力者が会社を財閥化していましたが、「渋沢財閥」を作らずに、広く社会の経済の発展に努めていた人でした。
渋沢栄一の生涯
埼玉県深谷市に豪農の家に生まれました。
渋沢家では、藍玉(藍色の原料)や養蚕を作り、更には米・麦・野菜なども作る農家の生産も手がけていて、一般的な農家に比べて商家のような家でした。
栄一も、原料の買い入れと販売を担うため、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行っていました。
既に14歳の時には、1人で藍葉の仕入れに出かけるようになり、商売の才覚を表す下地になっていたようです。
勉強の才能もあり、幕末の混乱時期には、江戸幕府最後の将軍である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕えることに。
そのため、1867年のパリ万博にも随行するなど、ヨーロッパ各地の先進的な産業・軍備を目の当たりにしていました。
しかし1868年の大政奉還で、主君である慶喜は将軍の座を追われ、パリから帰国することに。
帰国後は、フランスで学んだ「株式会社」を設立したり、1869年(明治2年)には静岡で商法会所を設立し、商売の道へと歩もうとします。
しかし、大隈重信に説き伏せられ、大蔵省に入りますが、これも4年で退職します。
その後、大蔵省で設立の指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、その後も地方銀行の設立を指導していきます。
今まで渋沢栄一が新札の人物にならなかった理由はヒゲ?
お札では偽造防止のため、「ひげ」があったほうが良いと言われていました。
また、人物を線で表現するので、ヒゲがある方が特徴が出やすいという理由も。
しかし渋沢栄一はひげがなかったため、今まで候補には上がっていましたが、なかなか決まらなかったようです。
日本の経済を作り上げた人が、新1万円札の人物になるということは、今後の経済発展にも寄与しそうですね。
新5千円札:津田梅子(つだうめこ)女子教育の先駆者
津田梅子は、1864年生まれ。(没年は1929年。64歳で永眠)
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女子英学塾(現:津田塾大学)の創立者で、日本における女子教育の先駆者と言われています。
津田梅子の生涯
津田梅子は、現在の東京都新宿区に、幕臣の父の子として1864年に生まれました。
しかし、1868年(梅子4歳の頃)に、大政奉還で父の職がなくなり、北海道開拓使の嘱託となり、麻布へと移りました。
1871年、梅子が6歳の頃に、岩倉使節団の女子留学生として渡米し、ワシントンで11年間を過ごします。
ワシントンでは、私立の女学校へ進学し、ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学びました。
1882年に日本へ帰国しますが、日本語が不自由になるほどにアメリカ暮らしが長く、梅子には仕事もない状態でした。
なんとか女学校の英語教師として努めますが、この頃の女学校は華族しか通えないし、行儀作法など結婚を目的とした教育が主でした。
そんな中で梅子は、女子の教育を求めるものの、日本では結婚を強要されてうんざりし、再びアメリカへと渡り、勉強に勤しみます。
1892年に再び帰国した梅子は、女子教育に力を注ぎ、1900年(梅子37歳の頃)に「女子英学塾」(現:津田塾大学)を設立。
ここでは華族や平民の区別がない、女子が平等に教育を受けられる場を目指します。
津田梅子は日本女子教育のパイオニア
当時は、女子は結婚し家庭を守るために生きる、ということが美徳とされていた頃。
そんな時代に、女子であっても正式な教育を受け、自立して生きていける女性を育てたいという津田梅子の精神は、今の日本にも必要とされています。
そんな方が新札の人物になるということで、今後の女性の活躍にも期待できそうですね。
また、大河ドラマでも、八重の桜(2013年:河北麻友子)や、花燃ゆ(2015年:知花くらら)などが津田梅子を演じています。
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新千円札:北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)日本の細菌学の父
北里柴三郎は、1853年生まれ。(没年:1931年。78歳で永眠)
医者・細菌学者として、ペスト菌を発見し、破傷風(はしょうふう)の治療法を開発することで、感染症の治療に寄与してきた人物です。
北里柴三郎の生涯
北里柴三郎は、熊本県阿蘇郡の庄屋の家に生まれます。
真面目で几帳面だった柴三郎は、1875年に東京医学校(現・東京大学医学部)へと入学します。
在学中から「医者の使命は病気を予防することにある」と感じ、予防医学に取り組みます。
1885年には、ドイツベルリン大学へと留学し、1889年には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす方法を開発します。
これにより、身体の中に少量の菌を注射して抗体を生み出すことで、破傷風にかからなくなるという血清療法という治療法を開発しました。
この業績で、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補にあがりました。
(実際には共同研究者のベーリングのみが受賞しました)
ドイツから帰国し、私立伝染病研究所の所長となったり、1894年(明治27年)にはペストの治療法の開発のため香港へと渡り、病原菌であるペスト菌を発見し、世界を驚かせました。
1914年には、北里大学の母体である北里研究所(現:社団法人北里研究所)を設立。そこでは狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清を見つけるために研究に取り組みました。
また、恩義のある福沢諭吉のために、慶應義塾大学医学部を創設し、生涯無給で医学部のために努めました。
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